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2010年11月14日

近江屋事件(龍馬暗殺)当初の説は新撰組だった。

龍馬は京では新撰組などにお尋ね者として
狙われており、密かに行動しなければ
なりませんでした。


常宿にしていた寺田屋も襲われたので
新たに隠れ家として使っていたのが
京都河原町にある井口新助邸でもある
近江屋という醤油屋(酢屋)です。

龍馬伝では船中八策を中岡慎太郎に
見せたのもこの近江屋でした。
このように京ではここを用いたので
暗殺犯の知れるところとなったようです。


1867年11月15日の夜の事です、大政奉還もなり
世間ではまさに天変地異の大騒ぎですが
龍馬は一仕事終えた達成感に浸ったことでしょう。


旧知の中岡慎太郎と酒でも飲もうと
菊屋峰吉に軍鶏鍋を買いに走らせます。


その後、近江屋で龍馬の身の回りの世話を
していた元力士の山田藤吉が十津川郷士と
言い乗り込んだ客人を対応。実は刺客だった
三人に背中から斬られてしまいます。


龍馬は三条制札事件について中岡と語ったとも
されますが、その時に階下から藤吉の叫び声が
聞こえた時に龍馬は「ほたえな!(騒ぐな)」と
叫んだのです。



その勢いで二階に突入した刺客は
龍馬の「ほたえな!」を目安に斬りこみ
刀を遠くに置いていた龍馬と慎太郎は
防戦できずに斬られてしまいます。


龍馬は絶命、中岡慎太郎はまだ息があり
救助されましたが2日後に死亡します。
その間に命をかけて中岡が語った証言が
後々に残る唯一の証拠となったのです。


暗殺時にもどります。軍鶏を買って戻った
菊屋峰吉が惨事を見て陸援隊の詰所である
白川屋敷へ走り知らせます。


駆けつけたのが土佐藩邸から河村盈進、曽和慎八郎
そして谷干城、毛利恭介。次いで薩摩藩の吉井幸輔
陸援隊士の田中光顕。そして海援隊隊士の白峰駿馬ら
となりました。


この時中岡から聞いた事を証言した土佐の
谷干城によると刺客が「こなくそ」と伊予弁を
話していたことから龍馬と中岡を襲撃したのは
新撰組の原田左之助や大石鍬次郎に違いない
とされたのが初めの龍馬暗殺犯説でした。


新撰組はいち早く龍馬を幕府に背く
お尋ね者として命を狙っていたことから
最も動機はあったのでこの説が有力と
されてもおかしくはなかったのです。


当時、巷では龍馬暗殺は新撰組だという
話題で持ちきりとなりました。






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Posted by ばるびどん at 16:57│Comments(0)龍馬暗殺犯 新撰組説
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